甘い匂い

　私はケーキが好きだ。でもまったりとした甘さは苦手。適度な甘さでなければ嫌なのである。だからチョコレートは苦手，漉し餡は好き。生クリームも少な目が好き，バタークリームは苦手。バニラアイスは苦手，ソフトクリームは好き。

　私はかつて広島市東区牛田早稲田に在住していたことがある。近所には，かなり美味しいと評判のケーキ屋「菓子の木」があった。私はそこのケーキが好きだった。その店は，いわゆる生ケーキの他にも，季節ごとのタルトなども揃えており，贈答用の手作りクッキーなどもあった。

　その店を見つけたのはほんの偶然。新聞に挟まっていた「特売」のチラシを持ってスーパー探訪に行く道にひっそりと建っていたのだった。本当に小さい店だった。
　それから私は「自分にご褒美」として，よくその店にケーキを買いに行った。

　春先には店の棚に大きな瓶が並ぶ。自家製のブランデー漬チェリーだ。バレンタイン・デー近くにはそのチェリーがチョコで包んだ可愛らしいチェリーボンボンに変身している。私はそのチェリーボンボンを買って，今の主人にプレゼントしたものだった。

　あるときは「誕生日プレゼント持ってくよ。何がいい？」と東京から電話をくれた彼に「菓子の木のケーキがいい。○○ちゃんお誕生日おめでとうって入れてもらって」と答えたこともある。実際に彼は東京から予約を入れて驚かれたようだ。

　広島を引き払うときも，その店でクッキーの詰め合わせを買って近所に配った。もうこのケーキともおさらばかと思うと，なんだかとても寂しい気持ちがした。店の奥さんに「贈答用ですか？」と聞かれて「はい。熨斗はいりませんが。引越しするので...」と答えた。奥さんは「いつも来てもらってたのに，残念です」と言ってくれた。社交辞令だとは思ってもすごくせつなかった。

　そして先日，久しぶりにその店を訪ねた。カランカランとカウベルを鳴らして，木製のこげ茶色の扉を中に入った瞬間に胸いっぱいに広がる甘い匂い。(そう，この匂い...)ケーキ屋だからと言って，必ずしも同じ匂いがするわけではないことと私は知った。同じ甘い匂いでも，私の好みの甘さなのだ。店に入るまでは(あれも買おう，これも...)と思っていたが，どうだろう。入った瞬間にもう満足していたのだ。その甘い匂いに。