むるっちさん Laox に並ぶ

　おりしも，その日放映の始まった『X-Files』(テレビ朝日系列)を見始めたころであった。玄関のドアをゴリゴリ触る音がする。テレビでは宇宙人と思しき人影が少女を追いつめ手を掛けた場面であった。私の心臓は高ぶった。まさか，そんなことがあろうはずがない。これはテレビの中のことだ，そう自分に言い聞かせつつ，物音を伺っていると・・・

　ガチャ

　扉が開いた。夫であった。いつになく早いお帰りである。そう，今日は1995年11月22日。明日の早朝，つまり午前０時に Microsoft 社の Windows95 が発売されるのだ。ニュース番組でもワイドショー番組でも取り上げていた。コメンテーターなどは「様子見たほうがいいでしょうね。まぁ，まず触ってみることですね。」などとおっしゃる，あれである。早くから予測されていたように，お祭り騒ぎとなるのは明らかだった。

　今朝の新聞にも大きく広告が出ていた。「本気でセール」，目玉のマークの Laox である。南浦和にもコンピュータ館がオープンするとのことであった。通常ソフトの取り扱いをしていない各店でも23日の午前９時から発売するとのことである。秋葉原なんぞは「推して知るべし」である。

　私たちは夕食の中華丼をいただきつつ，テレビに見入っていた。番組の結末が見えたところで片づけに入る。私は茶碗を洗いつつ時計を見た。９時である。夫は本気で，この寒い秋の夜中に買いにでかけるつもりなのか？私は尋ねた。

「何時ごろ，出かけるの？」

　夫はパソコンをいじりつつ，もっと遅くになってから出かける，と答えた。
　何をしているのだろう？システムエンジニアを生業としているのに，家でもパソコンの前に座るなんて，まるで「おたく」じゃないか。そんな私の心の叫びに反応するかのように電話のベルが鳴った。
　母からである。

「今日は出かけるの？」

　それだけであった。たぶん暇を持て余してのことだろう。夫が帰宅していることが分かり，それで電話は切れた。夫はまだパソコンをいじっている。
　私たちの使用している環境は Windows95 Fainal Beta である。ヴァージョンアップするには，環境を一度元に戻す必要がある，そう夫が言っていたのを思い起こす。そうか，出かける前に戻しておくつもりなのか，私はそう考えながら覗き込んだ。しかし，パソコン音痴の私にも夫が違うことをしているのは明らかだった。夫は黙々とホームページを手直ししているのだ。時計はすでに10時を回っているではないか。私は夫の機嫌を損ねないように，話し掛けた。

「環境，もう元に戻したの？」

　夫は，機嫌良さそうに，しかも素っ頓狂な声でこう答えた。

「あっ。そうだねぇ。しんといかんねぇ。」

　夫は余分なファイルの削除を始めた。すでに10時半は過ぎている。こんなことなら，早く言えばよかった。私の心は焦りはじめ，なんだか汗までかいているような気さえする。このとき，私は防寒具に身を固め，昼間さくら銀行でこのために下ろしてきた５万円を財布に入れて，すでに万全であった。一方，夫はラフというよりは，Ｔシャツにジーンズという幾分寒そうな格好でパソコンと向き合っている。

「早めに出かけた方がいいんじゃないの？」

　私の焦りがついに声になってしまった。しかし，夫は何食わぬ顔で「大丈夫だよ，南浦和だから」などと言っている。確かに秋葉原へ行くよりは，人も少ないと思われるが・・・

「じゃ，行こうか。」

　夫がそういったのは，11時５分であった。私たちは自転車に２人乗りをして駅までの道を急いだ。夜空には少し星が光っているような気がした。駅の横の方に不法駐輪し，切符売り場までの階段を一気に駆け登る。ＪＲ京浜東北線の終電の時刻を確認し，電車に乗り込む。思っていたより人は多く，私は思わず（おまえら何やってんだよぉ。子どものくせに）などと心の中でぼやいてしまう。
　南浦和駅に到着。西口へ向かう。様子が分からない私は，出張で来たことがあると主張する（少し方向音痴の気のある）夫に従って進む。階段を降りる。闇夜に浮かぶタクシーの空車ランプと「コンピュータ館」のネオン。Laoxである。見ると入り口のところにすでに何人か並んでいる。しかもおやじばっかり。「さぁ，並ぶぞ」と最後尾に近づくと，後ろからおやじが一人割り込んできた。いや，正確にはそうでないのかも知れない。しかし，私には大きなわだかまりが残った。夫は平気そうである。鈍感というか寛容というか・・・謎の人ではある。

　並んでみても，やっぱり周りはおやじばかりである。何か食べてる奴やワンカップ大関と思しき湯気の立つ透明な液体をちびりちびりやってる奴とか。私は「場違い」さんであった。居辛くなった私は，夫に申し出た。

「私，あっちで待ってようか？」

　夫は暗くて危ないからと止めた。的を得た注意でもないなぁと思った。何故ならそこは，こうこうと明るい Laox の入り口の正面近くであったから。
　そのうち，店員が買い物かご（スーパーなどに置いてある黄色のプラスチック製のあれ）を下げて近づいてきた。何か叫んでいる。

「カイロ，もらってますか？」

　思わず私はつぶやいた。そんなサービスするくらいなら，はやく開けてくれ，と。夫は相変わらず寛容である。私に「寒くない？大丈夫？」などと問いかける。
　カイロをもらった私は時計を見た。まだ20分以上はある。夫に「しりとり」をしようと話し掛け，しりとりをしながら待つことになった。

「じゃ私から。ācārya」
　いつものサンスクリットしりとりである。２年も余分に勉強したんだから，夫が有利に決まっている。
「や...yamaka」
「か.か..か...kāvya」
　今はまだいいが，そのうち夫は哲学用語か書名を連発するんだろう。それでもしりとりは続く。

　ふと後ろを見ると列はだんだん伸びている。もの好きだなぁ，みんな。それでもやっぱりおやじばかりみたいである。

　店員が並んだ客に何か問い掛けながらこちらへやってくる。どうやら何を買うのか確認しているようである。私たちの番である。夫は「CD-ROM版のUpgrade，Office。PLUS!はありますか？」と半分呪文のような返事をした。どうしてパソコン用語はこんななのか，私はそう思った。
　店員のいうことには PLUS!はセット数が足りないかも知れないということであった。ちなみに私はそこで初めて，Windows95の他にもなにやら買うのだということを理解した。
　しかし，上手（うわて）という者はいつでもいるものだ。店員に「本体もいっしょに買えますか？」と尋ねている，かなり年配の男性がいた。いやぁ，よかった。
　誰かが後ろで話している，「秋葉原は150メートルだって。」あぁ，よかった，よかった。

　ともかく店員のメモを覗いた感じでは，私たちは30番目から40番目くらいだと思われた。私たちはそのまま，しりとりをしながら待っていた。時計は11時55分を指していた。

「as」
「何？」
「ルートas。」
「じゃ，asti。」
「だめ。asがあるもん。」
「じゃ...samāsokti」

　前がざわついた。ついに始まるか？緊張が高まる。しかし列には動く気配がない。すると店員が前から走ってきた。

「販売開始します。販売開始します。」

　注文数の確認をしていた店員に向かって叫んでいるようだ。人々の列は，あたかもサスペンドの状態から復帰する画面のように，ゆっくりとだが確実に活気づいていった。

　しかし，何かおかしい。そう，列が進まないのである。売るものは限られているのに列が進まないのである。野次馬が横からすり抜けて，中の様子を見に入っていく。私は心の中で彼らを罵倒する。しりとりはうやむやになってしまった。
　まぁ，それでも遅々と歩みを進めていくうちに私たちはレジの前に立つことができた。

「Upgrade版。Office。Officeはaccessがついてないほう。CD-ROMです。PLUS!もください。」

　夫は，そう告げた。レジの後ろでは幾人かの店員がやたらと走り回っている。まるで年末のようだ。

「千円札足りません」「PLUS!はこれだけ？」「はい，これだけです」「千円札です」

　いったい今まで私たちを待たせている間，あんたら何しとったの？とぼやく私。相変わらず寛容の夫。謎の人である。ともかくお金を払う夫を見つつ，私は待った。横では相変わらず野次馬が出たり入ったりしている。うるさい。お釣りをもらったのはいいのだがレシートが遅れる。収入印紙を貼るのに時間を要するようである。

　商品を受け取り，確認をする。隣の人が「PLUS! がフロッピーになってるんですけど，CD-ROMに代えてください。」などとやり取りしている。夫にもう一度商品を確認してもらって店を出る。ずっと後ろにいる人たちに，ちょっとだけ優越感を感じつつ・・・。野次馬の間をぬって駅へ向かう。

　買ってみれば「なんだ，それだけ？」である。

　切符を買ってホームへ向かう。どうやら終電に乗れそうだ。

　あくびをかみ殺しながら，終電のいすにもたれる。この感じは，この感じは・・・。そう，祭りのあとの寂しさに似ているのだ。