死神

　「そろそろどうですか？」と小さくて黒い服を着た男が言った。

　そこは小さな事務所の片隅。茶色の皮張りの大きなソファーセット。小学３年のあたしにはまだ大きすぎて，身体がソファーに沈み込んでいくの。あたしの向かいには大きな男の人と小さな男が座ってる。小さな男は黒のスーツに黒のネクタイで，大きな方は黒いマント・・・かも知れない。イスラムの女の人みたいに頭の先から地面すれすれまで黒づくめ。でもなんだか暗くてよくわからない。あたし，目もよくないし，第一，部屋が暗すぎる。夕方が夜にずっと近づいて，薄暗いというには暗すぎて，でも完全な暗闇じゃない，そんな時間帯。

　さっきからひっきりなしに小さな男がしゃべってる。もうずいぶん長い間，こうして向かい合って座っているけど，大きな方はずっと黙ってる。頭からすっぽり黒い布をかぶってるから，顔も全然わからない。ソファーに座っているのにずいぶん大きい。座高だけで 170cm くらいはありそう。お父さんの身長と同じくらいだもん。でも小さい方は本当に小さい。あたしと同じくらいの身長かも知れない。でも，顔はおじさんっぽい。あたしのお父さんより年上かも知れないって思った。

　「どうですか？」小さい黒いスーツの男がもう一度あたしに聞いた。

　あたしは答えた。「まだ，このまま暮らしたいです」って。「まだ小学校のこと，よくわからないし，小学校くらいは卒業したいです」ってちゃんと言った。あたしは転校したばかりでクラスの女の子にいじめられてたけど，たいしたことなかったし，新しい友だちも出来たばかりだったから。
　怒られるかなって思った。でも，二人とも何も言わずに帰って行ったみたいで，あたしだけがそこに置いていかれた。暗闇の中で，ひとりぼっちで。すると急にけたたましいベルが鳴った。

　ジリリリィ・・・目覚し時計だった。ただそれだけの，夢のはずだったの。

　ある日，また暗くて小さな事務所の片隅に立ってた。あれ？って思った。あたし，ここ知ってる。この夢見たことある。
　そう思って振り向くと，茶色のソファーセット。あのとき座ってたのと同じソファーだった。そして，やっぱりあの時と同じ二人の男の人が座ってた。そして，小さくて黒い服を着た男があたしに言ったの。「そろそろどうですか？」って。

　あたしは丁度その頃，漢字テストで満点が続いて学校が好きになってた。６年生になってからは成績も良くて，母に叱られることも少なかったの。だから「どうせなら中学校まで行きたいんですけどぉ」って答えた。
　小さくて黒い服を着た男は言ったの。「もう，これが最後のチャンスですよ。本当にいいんですね。もう迎えに来ませんよ。」って念を押したわ。
　あたし，ちょっと考えた。(最後って？)　でも，いいや。セーラー服も注文しちゃったし，来月には入学式だもん。

　「私，中学行きます。ごめんなさい。このままにしてください」

　あたしがそう答えると，二人の黒い男はあたしの目の前で，すっと空気に溶けてしまった。でもソファーには黒く光っているすごく大きな鎌が残っていたの。それで，ようやくあたしには分かった。あの大きい方の黒い男は死神で，小さい方の黒い男はマネージャーだって。小学２年のあたしとした約束の期限が来たから迎えに来たんだって。

　そう私が考えていると，あたしの目の前で，大きな鎌は男たちを追うように，すっと暗闇に消えていった。

　(やっぱり死神だったんだわ)って目が覚めた私は考えたの。

　そうして，あたしは中学生になった。もちろん，そんな奇妙な夢のことなんて，すっかり忘れてしまってた。

　ある日，お母さんが風邪でダウンした。でもうちの商売が忙しくて寝てられなかったことがあったの。２,３日経って，急に回復したお母さんとあたしは買い物に行った。途中，車の中で，お母さんが話出した。「風邪でつらくて寝てると夢の中でもしんどいわねぇ。具合いが悪いのに，仕事してたのよ・・・夢の中でね。そうしたら，小さなおじいさんが部屋の隅に立ってね，杖の大きいので手招きするのよ。『こっちぃ来い，こっちぃ来い』って。失礼じゃない？　杖で呼ぶのよ。頭に来ちゃってねぇ。杖を引っ張って，おじいさんの頭をポカって殴っちゃった・・・」

　(あっ，もしかして・・・)

　あたしはそのおじいさんの様子を聞いてみた。どんな服？年は？って。どうやら，あの死神さんみたいだった。どうしてお母さんには鎌じゃなくて杖だったのかはわからない。でも，そんな死神さんを殴ってしまって追い返したお母さんは恐い人だなぁ，やっぱり逆らっちゃいけないって私は思った。

　それから「死神さん」の夢は見ない。本当にあれから一度も見ないのだ。あれから10数年・・・死神さんは二人も逃していいのかしら？　それとも他の誰かを・・・？