初秋

　夕方になって風も涼しくなってきた。どこかで季節はずれの風鈴がチンチンと堅い音をたてている。車が行き交う音は，心なしか少なくなっている。

　黄昏。空間が異質のものに変化していく過程。

　女はその時間帯が好きだった。皆が帰り行く先にはやわらかな灯がある。こどもの声がまばらになり，町が静けさを取り戻していく時間。女を待つ家はなかったが，暗い部屋から温かそうな窓を見つめるだけで，その静寂が煤けた自分を癒すような気がしていた。特に初秋は空気が透明度を増すのに薄く，心地よい冷たさが女の好みに合った。

　(あの窓はダイニング。ほんの少し前に小学生がふたり玄関から入っていった。母親に今日の報告をしながら，テレビを点ける。母親は台所で一番忙しい時間を過ごし，子供たちに話し掛けながら，でも手は別の生き物のように手際よく動く。父親はもう帰ってくる頃か？　それとも今日は父親抜きで食事をするのだろうか。メニューはなんだろう。子供の好物が並んでいく...)

　(あ，今，灯りが点いた。帰ってきたばかりだ。共働きか。新婚だろうか？　それとも長い時間を夫婦ふたりで過ごしてきたのか。　いや，子供が独立して，第二の新婚生活なのか。どちらが先に帰ってきたのだろう？　郵便受けから出した手紙をチェックしながら一休みする。食事の仕度はそれからだ。)

　(もう薄暗くなっているのに，父親が赤ちゃんを抱いて出てきた。食事前のお散歩だろうか。きっと日課だ。その間に母親が食事の仕度をする。あ，女の子...帰りの遅いお姉ちゃんを迎えに出たのか。)

　それぞれの灯りをマンションの５階から眺めながら勝手な空想をするのが，女の日課だった。女は独りで暮らしていたが，その一瞬だけは独りではなかった。

　女はそうやって窓辺に座って黄昏に沈んでいく町を見ながら，その自分勝手な空想を飛ばしていくのだった。しゃぼん玉を飛ばし続ける子供のように，女は町が完全な暗闇に消えていくまで，その空想を飛ばし続けた。しゃぼん玉が女の元を離れて空中で弾けるまでの時間，女の空想が暗闇に阻まれるまでの時間，それが癒しの時間だった。

　薄闇にただよう靄のようなものではあったが，それが女の幸せだった。

　しかし，この初秋は違っていた。去年までの黄昏とは違うのだった。異音が空間を切り裂くのだった。初秋の静寂を愛する女には許せないことだった。

　絶え間なくその音を聞いているのなら，きっと慣れてしまっていただろう。だが，その音は散発的だった。しかも日増しに音量を増している。いや，単純に音量が増すのではない。力強さが加わっているのだ。そう生命のたくましさ...。女の苦手とするものだ。

　(あぁ，泣いている。隣りだ。窓が開け放たれているからだ。窓の外から入ってくる。壁から伝わってくる。泣き声だ。何かを欲して泣いてるのだ。なんだろう。誰も赤ん坊をあやしている気配がない。そうだ，さっき買い物に出掛けたようだったから，ひとりで泣いているのか。いつになったら泣き止むのだろう。)

　女は思い出した。

　春。
　窓を開けて風を入れるのにいい季節。小さくみぃみぃという小猫のような声。そんな音がオルゴールのように女の部屋に吹き込んで来た。その小さな鳴き声は軽く，部屋の中を漂うのだった。女はその声を聞こえるに任せていた。

　柔らかい感触，よく動く四肢，自分の庇護がなければ消えてしまうもの。

　女は夢想した。女の部屋にいる，その小さな生き物を。部屋にはミルクの匂いが満ち，赤ん坊の肌着のような柔らかい空気に包まれる自分を。自分を求めて，自分を必要として泣くだろう，その小さな生き物を。

　女はしゃぼん玉を部屋の中で見た気がした。何か暖かな光を受けてキラキラと輝いている...自分の部屋がそんな暖かさに満たされていくのは初めてだった。いつもと何ひとつ変わらないのに知らぬ部屋に見間違うほどの変化だった。しかし女の心は懐かしさで一杯だった。いつもと同じ自分の部屋が，何故こんな印象を自分に与えるのか，女にはわからなかった。

　女は，黄昏の町を見ことなく，自分の部屋で安らぐようになった。

　夏。
　冷房のない部屋で生ぬるい風に晒された女は何を感受することもなく眠り続けた。オルゴールのような小さな軽い音は聞こえなくなっていた。自分の心を軽くした，その音が聞こえないことに女は気づいていた。女はその小さな生き物を夢想しなくなった。

　隣家のドアの前には空の丼や寿司桶などが積まれるようになった。孫の顔見たさに，田舎の両親が母子だけを呼び寄せたのだろう。盆にはまだ早い。

　涼しく静かな田舎の空気の中を，あの声はどんな風に舞っていくだろう。そのうちまた，あの声を聞くことができる。

　女はただ，暑さから逃れることだけにエネルギーを費やした。

　そして，秋。
　女の一番好きな季節になって，その声は戻ってきたのだった。更なる生命力を蓄えて。

　女はまだ独りでいる。そのたくましい生命力に満ちた声が，女から癒しの時間を奪っていく。空気すらも血に変えるような強さ...そんな強さを秘めた声を聞くたび，女は自分が干からびていくような感覚に陥る。その声はもう部屋を夢想させてはくれない。けれど女にはその声から逃れることはできない。

　春にはそのオルゴールのような声が女にしゃぼん玉を見せたが，今はもう何も見せてはくれなかった。声自体が変質してしまったかのようだった。女はもう自分の部屋だけでは安らげなかった。

　女が窓辺から外を見ることもなくなった。

　女はもう忘れてしまったようだった。その声の前には黄昏が女の癒しだったことを。黄昏に自分で空想を飛ばすことが出来たことを。

　ノイズの中に何か懐かしい音楽を求めるように，泣き声の中に何かを求めながら，女はその声を追う。切ない，哀しい気持ちだけがその部屋に残った。