むるっちさん日本へ帰る
それは，すべての旅程を終え，タイ航空旅客機の出発までの中途半端な時間をホテルでつぶしていたときに始まった。
そのとき，私は下腹部に猛烈な痛みを覚え，トイレに駆け込んだ。それが何度も続くうちに胃がきりきりとしぼられるように痛み出したのである。普段から｢大正漢方胃腸薬｣を愛用している私は，ポーチの中からその顆粒の銀色に包まれた小袋を取り出し，口に含んだのであった。しかし痛みは収まらず，更にバファリンを飲むこととなった。隣で安らかに眠っていた夫は，いきなり起きだしてこう言った。
｢あたまがいたい｣
私はふつふつと湧き出す痛みをこらえつつ，夫にバファリンを飲ませ，寝付かせた。そのうちに，私も寝ていたようで，電話のコールで眼を覚ました。
｢夕食だよ｣
同じツアーの参加客であった。私たちはしぶしぶ起きだし，集合場所へ降りて行った。夕食は，ビュッフェスタイルであった。あちこちに趣向を凝らした料理が並び，数人のコックが肉や卵を焼いている。壮観な眺めであった。その照明がチャオプラヤ川に映え，ロマンチックですらあった。
その時の私に浮かんだのは，午前１時10分出発の飛行機に乗るからには少し食べておかねば脱水症状になってしまうかも知れない，ということであった。私は，かろうじて，冷たいコーンスープをカップ１杯とモンキーバナナを２本を胃に納めた。とたんに，先程まで我慢できていたはずの強烈な食べ物の臭いが鼻を突き，ついに私は音をあげた。夫は，先程までの頭痛は何処へやら，｢これが，探していた味だよ｣とかいいつつ，カレーを頬張っているのであった。
既にチェックアウトを済ませていた私たちは，夕食もそこそこにロビーで更なる時間をつぶすことになった。しかし，これは私と痛みとの次なる戦局への展開でもあったのだ。
次第に不快感を増していく私の顔色を見つつ，心配そうに通り過ぎていく人々・・・。営業妨害にはならないのか，ホテルの従業員が声を掛けてくるのでは，などという冷静な感覚が残っている一方，心臓の鼓動とともに強さを増す痛みに負けそうになっていた。その時であった。ひとりのツアー客がこう言ったのである。
｢つわり？｣
普段の私なら，おそらくブチ切れていたであろう。しかし，そのとき私は大いなる痛みと戦うひとりの果敢なる勇者であった。そんなことにはかまっていられないのだ。夫は，いつもの人の良さそうな態度で応対している。
添乗員が私の不調に気がついた。しかし，彼にはどうすることもできなかった。もちろん私には始めからわかっていたことであった。
バスが空港へ向かう。皆が乗り込む。私は夫にすがり付きつつ，バスに乗り込む。痛みは増したが，バスに揺られているうちに眠っていたようだ。夫に起こされると，すでにそこは空港であった。バンコク国際空港である。荷物はポーターにより運び出され，私たちはロビーで待たされるのであった。添乗員に案内され，禁煙エリアの堅く冷たいプラスチックの椅子にもたれる。夫はつきっきりである。夫の膝にうつぶせて，また眠る。その間にも痛みは絶えることなく続く。
いよいよ出国手続きである。もうろうとした意識の中，作業は進んでいく。しかし，私は立っていることができず，夫に支えられるまま手続きを済ました。まだ出発時間までは３時間強。またしても，冷たい椅子にもたれかかっているしかないのだ。
息を切らしつつ添乗員が説明している。どうやら，空港内には医者はいない，ソファーも医務室もないということのようだ。彼の誠意をありがたいと，心から思った。しかし，ようやくの思いで彼にほほ笑みかけた私の眼に映ったものは，彼の手に握られている｢ルイヴィトン｣の紙袋であった。どうやら，走り回って医者を探す間にも，彼女へのお土産だけは買えたらしい。
そのうち，夫がこう言った。
｢２３番ゲートに移動しようか？｣
夫は私の辛さをよく理解し，休みながら移動すべきだ，早めに行こう，というのだ。早めに行けば，きっと新しい場所でも椅子が確保できると考えてのことであろう。私は夫の忠告に従い，移動すべく立ち上がった。と同時に，猛烈な痛みと吐き気が襲ってくる。夫の手を握り締め，堪えて歩き出す。やはり，長くは立ってられない。座り込み，座り込みする私を辛抱強く待つ夫を見ながら，私は(自分ならこんな恥ずかしい奴，見捨てるだろうなぁ)という気がしてならなかった。
なんとかゲートに到着した。チケットのチェックを受けて，待合室に入る仕組みである。ほんの３メートル手前までは歩けたのだが，ついにゼンマイが切れた人形のように動けななった。窓口を眺めながら，痛みを堪えてうずくまる。
添乗員が説明に来た。
｢ＪＡＬの人に聞いてみたのですが，満席だそうです。薬は少し常備してあるようです。｣
結局，このまま痛みを堪えて日本に帰るのか。もう誰も私を構わないでくれ。もう何も出来ないのなら，話し掛けないでくれ。そんな私の状況にも気づかないのか，ひとりがこういった。
｢担いで，吐かせたほうが楽になるぞ。｣
出発３５分前。タイ航空の職員が声を掛けてきた。
"Something wrong ?"
私は説明した。熱があり，調子が悪いのだ，と。
すると，その職員は更に尋ねてきた。医者に見せようか，歩けるか，車椅子を呼ぼうか，と。その後，トランシーバーで何事かを話していたが，もう１晩ここに宿泊してくなら手配する，と申し出てくれた。私は先程までの自閉した気分から，一転，自分を主張する気になった。夫は帰国翌日から出勤しなくてはならないからこの便で帰国したいこと，歩くのは難しいので車椅子が必要なこと，そして帰国する際の機内で，少し広いスペースを確保してほしいことを，である。
それから間もなく車椅子が到着した。タイ航空の職員が夫にパスポートとチケットの確認を行うが早いか，走り出した。先程，私が這うようにして辿った道のりを，である。ボディーチェックの器材の横を抜け，人込みを抜け，出国審査のゲートを逆に通り，空港の出発ロビーに戻る。南国の，しかし冷たい夜の風が，熱っぽい私の額をなで上げていく。そのまま車椅子は走りつづけ，ついに駐車場に出た。そのまま建物脇に走り込み，エスカレーターで階下へ向かった。
エスカレーターを降り，右に進むと，そこには大きなガラスの扉があった。タイ航空の職員は，そのガラスの扉の前に立ち，ブザーを鳴らした。中から長身の若い男がのっそりと近づき，その扉を開けた。そうして，車椅子は医務室へ入ったのである。
助手らしき年齢不祥の男が，夫に尋ねている，彼女はいくつか？ と。夫は，痛みに耐える私を覗き込み，24だよね，などと確認する。なぜ妻の年令を知らないのだろう。その助手らしき男がなにやら書類に書き込みをしていると，一見ドラヴィダ系インド人にも見える体格の良い医者がゆったりと入ってきた。
私は医者に説明した。手足がしびれて変な感じがすること，お腹が痛いこと，少し熱があること(実際その場では37.8度くらいはあったように記憶している)，喉が非常に渇くこと，今はそれほど気持ちわるくはないということ。すると医者は尋ねた。
「最後には何を食べましたか？」
こんな問診を繰り返すと，医者は私に診察台の上に横になるように指示した。触診のあと，彼は助手に何がしかの指示を出して消えてしまった。助手はそれを受け，大きな注射器に入った透明な液体を，私の右ひじの内側の血管に流し込んだ。コップ１杯くらいはあったろうか。その後，薬を飲むように指示される。水の入ったコップが差し出される。（果たして，これが生水だったらどうなるのか。氷が入っているからには白湯か。いや，この氷は？）一瞬のうちにそれだけのことが頭を過ぎる。しかし，もう時間がない。
なんとか飲み終えると，車椅子は再びもと来た道を戻りだした。さっきよりもずっと早い。タイ航空の職員と夫の気配が遠ざかっていく。車椅子はそれでも早い。そのうち，後ろで車椅子を押している男の息が私の頭に掛かりだした。しかし，車椅子に乗っているのは私である。しょうがないと思うべきだろうか。
ゲートに戻ると，既にすべての客は搭乗を終え，待合室に残っていたのは添乗員のみであった。私たちは機内へ乗り込んだ。すると，スチュワーデスはエコノミーではなく，ビジネスクラスの方に案内する。どうやら，特別に確保してくれていたようである。私を座席に座らせ，その横に夫が座る。病人の方だけお願いします，と冷たくも夫に一言が浴びせられる。どうやらこの２席は私が横になるためのもののようである。
すると間もなく離陸。禁煙のサインが消えるころ，スチュワーデスが氷のうらしきものを持ってきて，横になるようにすすめてくれた。私は，その氷のうを額に当てているうちに深い眠りに落ちていった。
どのくらい眠ったか・・・。尿意を覚えて起き上がると，機内は真っ暗であった。どうやら映画を放映しているらしい。しかし，ほとんどの乗客は眠っているようである。私は靴を履き，機内最後方にある洗面所までよろよろと歩いていった。用事を済ませ，洗面所から出てきたとたん，吐き気とめまいで立ちすくんでしまった。しかし，こんな狭いところでいつまでも座り込んでいるわけにはいかない。私は気力を振り絞って，座席まで戻った。私が占拠している席の横に男らしき人影が。夫であった。夫がなぜそこにいたのかは不明だが，彼はあと１時間経ったら薬の時間だからもう１度来ると言って引き返していった。
スチュワーデスの呼びかけで目が覚めた。彼女は車椅子が必要なら地上と交信して用意すると言った。私は頼んだ。着陸20分前であった。シートベルトを着用し，人間も着陸の姿勢をとらねばならなかったが，私は起きていられず，シートベルトを緩めに着用し横になっていた。普段でも，あの着陸時の体感重力は吐き気を呼び覚ますのに，こんな状態では・・・。
すべての乗客が降りたところで，私も夫に支えられつつタラップを降りる。車椅子に乗ると，それ用のワゴン車に載せられ，夫とともにNGO空港ターミナルへ向かった。
関係者専用のドアから入るとそこは検疫のブース。厚生省健康相談の文字が見える。中に入ると，私の嫌いなタイプの医者が威圧的に立っており，矢継ぎ早に質問を浴びせ，私が答える前にかぶせるように話しを進めていく。まだいつものペースでは話しはできないのだ。医者も気づいたのか，今度は同じ調子で夫に質問を浴びせる。主語のない質問であるのに，どうやらその質問の主語は私又は夫又はその両者，という具合に変化するらしく，夫にも質問の対象がわからないようであった。
ともかく，私はトイレに案内され，小さな試験管とゴム栓のついたガラス棒とを渡された。検便をするとのことである。肛門に１cmほど差し込むだけで良いとのこと。私はそのトイレに入った。たしかに個室に仕切られた，つまり普通の洋式トイレであったが，そこにある便器は簡易性を重視したかのようなプラスチック製品であった。仕組みとしては大きなバケツ（？）にビニール袋をかぶせ，その上に便座が載せてあるといったものである。私は大きく溜め息を吐いて，検便を済ませた。
検査結果は，コレラが翌日，赤痢が翌々日にわかるとのことであった。他にもいろいろ医者から説明があったようだが，すべて夫が聞いただけで私にはよくはわからない。
その後，車椅子に乗ったまま，入国審査も税関も人込みをすり抜けた。結局，ツアーには戻ることなく，私と夫はそのままタクシーで帰路についたのであった。
後から夫に聞いてわかったことは，タイのバンコク空港で診療代として200バーツ請求されたということ(現地のお金をすべて使い果たしていた夫は，円しか持ってないと主張する。すると1000円払ってくださいという答えが帰ってきたようだ。少しぼられた気もする)，私が服用した薬の他にもなにやら怪しい薬をもらっていたことである。
後日談：
コレラも赤痢も陰性。帰国してから既に５日経つが，未だ本調子は出ず。しかし下痢もなく，快方に向かっている。ぼられた診療費1000円と激しい痛みと引き換えにではあるが，こんな経験ができたことはラッキーだったのかも知れない。それにしても，NGO空港の医者，対応悪いぞ。日本語が通じなくたって，バンコク空港の医者の方がずっと親切だったぞ。