水道の蛇口

　長い間（記憶がさだかでない今ではそう思うだけかも知れないが）水道の蛇口は，私にとって恐怖の対象であった。蛇口をひねった瞬間，そこから何が出てくるかわからないという恐怖に捕らわれていたのだ。その蛇口は限られたものではない。自宅の台所，洗面所，風呂場，庭，更には幼稚園の洗面所に至るまで，どこの蛇口も私にとっては同じ，恐い蛇口であった。

　「何が出てくるかわからない」と書いたが，私が最も恐れていたのは「河童」であった。頭頂部に皿状のものをくっつけ，手には水掻きがあるという，あの河童である。誰から聞かされたものかは定かではないが，私の中での知識では「河童」とは以下の如きものであった。

• 基本的には水棲生物であるが，皿が湿っていさえすれば陸でも生活しうる。
• 体の大きさを自在に変えることができ，水のあるところならば何処でも行き来可能。
• 人の言葉を理解し，いたずらが好きである。

　つまり幼い私が恐れていたのは「河童が体を小さくさせて，何処からともなく水道に入り込み，うちの蛇口から私の目の前に姿をあらわす」ということだったのだ。

　しかし，子どもと言えども蛇口を触ること無しに生活は成立しない。朝の洗顔・歯磨きに始まり，トイレに行くたびに手を洗わなくてならないし，風呂に入れば湯を水でうめることもある。だからこそ恐かったのだ。

　さて。それでは私がいつ気がついたか。

　それは小学生も高学年だったころであろうか。図書館で本を借りることが好きだった私は，その日も一冊の本を借りた。タイトルは忘れたが，そこには紛れもなく，幼い私が恐怖していた「河童」について，寸ぷん違わぬ記述を見ることができた。
　その本は，芥川龍之介の『河童』を子供向けに焼き直したものだった。ある男性がなにかの弾みに河童の国へ行ってしばらく暮らし，その後もとの世界に戻っては来る，という話である。言わば，ガリバー旅行記の「河童ヴァージョン」であろうか。どうやら，幼い私はその物語を聞いて，そう思い込んだのであったらしいのだ。しかし誰から聞いたかは定かではない。