鼻水

　あなたはお母さんにこう言われたことはないだろうか。

「鼻をかみなさい」

　私は子どもの頃から，風邪で鼻をすする度にこう注意されたものだった。母は更にこう言うのが常だった。

「馬鹿になるに」「脳みそ腐るに」

　それはこういう理屈である。鼻水とは，「風邪のばい菌」によって「脳みそ」を溶かして老廃物になった物質であり，それ以上脳みそが溶けるの防ぐために「鼻水」となって鼻から出てくる。もし鼻水をきちんとかまずにすすってしまった場合，その物質は脳みそのある部位に戻り，更なる侵食を続けて脳みそを腐らせてしまう。だから，鼻水が出てきたら，きちんと「鼻をかみなさい」ということなのだ。

　特に信じていた訳ではなかったのだが，ただ漠然とそう思い込んで生活していたある日，何かの拍子に「鼻水は脳みその腐ったもの」であるという発言に，薬学部志望の友人が一言こう言った。「ちがうよ，それ」
　彼女はこう説明した。風邪の菌が鼻の粘膜を刺激して，鼻の内側の粘膜が反応して鼻水を出すのだと。

　その説明を聞いたのは18才の秋だった。

　友人はそんな私を見て感動したようだった。どうしてそれが今までわからなかったのかと。私は「別に，鼻水のメカニズムなどわからずとも生活するのには何の支障もない」と答えることしか出来なかった。

　その日，母にそのことを告げると彼女はこう言った。「なぁにぃ・・・信じとったの？ 子どもなんてそう言わんと鼻かまんでしょう」

　それから２年後。祖母のうちで年の離れた従妹たちと遊んでいたときに，その「鼻水」の話をして「おばちゃんってひどいらー」と問い掛けた。すると中学生・小学生が揃って「えぇー，違うのぉー。うちのお母さんもそう言ったよぉ。」
　従妹たちは隣室の祖母たちのもとへ行き，「嘘？」と問い掛けた。すると叔母たちは答えた。「だって，おばあちゃんがそう言ったんだもん。」

　私に子どもが出来たら，きっとそういう風に教えるだろうとは私も思う。私自身，脳みそが腐るの怖さに必死で鼻をかんだ記憶があるのだから。